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十二月ー年越しのお話。
 
十二月の民族行事。
十二月二日〜三日      秩父夜祭り(埼玉県)
十二月五日         アエノコト(石川県)
十二月七日頃        大雪(二十四節気)
十二月七日〜九日      羽子板市(東京都)
十二月七日〜翌年一月三日  遠山霜月祭り(長野県)
十二月八日         事始め(事納め)針供養
旧暦十一月八日       鞴祭り お火焚き 伏見稲荷神社お火焚神事(京都府)
十二月九日         大黒祭り 旧層十一月最初の子の日ー金屋子祭り
十二月十三日        事始め(正月事始め)煤払い、松迎え、注連縄張り
十二月十五〜十六日     秋葉の火祭り(静岡県)
十二月中旬〜下旬      年の市
十二月十五〜十八日     春日若宮おん祭り(奈良県)
十二月二十二日頃      冬至(二十四節気)穴八幡冬至祭り(東京都)
十二月二十三日       天皇誕生日(国民の祝日)
旧暦十一月十五〜二十四日  霜月祭り
旧暦十一月二十三〜二十四日 二十三夜待ち、大師講、太子講
十二月二十五日       クリスマス
十二月下旬         餅つき
十二月三十一日       大晦日、年神祭り、若水迎え・若火迎え、除夜の鐘、
              八坂神社おけら詣り(京都府)
              ナマハゲ(秋田県)トシドン(鹿児島県)
 
十二月の主要なお祭り。

一〜二十三日(不連続)   霜月まつり           遠山郷の十三の神社 長野県飯田市南信濃 
一日            桜山まつり           桜山公園 群馬県藤岡市三波川 
二日            おしろい祭り          大山祇神社 福岡県朝倉市杷木大山 
二・三日          秩父夜祭            秩父神社および周辺 埼玉県秩父市 
四日 第一日曜       ひょうたん祭り         柴山八幡神社 大分県豊後大野市千歳町 
四日            保呂羽堂年越し祭        千眼寺 山形県米沢市窪田町 
六日            秋葉山権現火防祭        秋葉山量覚院 神奈川県小田原市板橋
七日 第一日曜       笑い講             山口県防府市大字台道の当番(頭屋)の家(小俣八幡宮の神事)
八日 第一日曜       お火焚大祭           太郎坊宮 滋賀県東近江市小脇町
九日・十日         鳴滝の大根焚き         了徳寺 京都市右京区鳴滝本町
十日            大湯祭             氷川神社 さいたま市大宮区高鼻町
十四日           赤穂義士祭           兵庫県赤穂市 
十四日           やっさいほっさい祭り      石津太(いわつた神社)大阪府堺市西区浜寺石津町中 
十二月・一月の十五・十六日 世田谷ポロ市          ポロ市通り 東京都世田谷区 【問】せたがやポロ市保存会
十六日           鵜祭              気多大社 石川県羽咋市寺家町
十八日 十七〜十九日    羽子板市            浅草寺 東京都台東区浅草 
十二月二十日〜一月三十一日 下田水仙まつり         爪木崎 静岡県下田市 
二十八日          をけら火の鑚火式(ひきりしき) 八坂神社 京都市東山区祇園町北側

 
  アイヌの祭り。
   アイヌの代表的な祭り、熊祭りは、カムイオマンテ(神送り)、イオマンテ(熊送り)と呼ばれ、冬の狩りの始まる前の12月ごろに行われていました。現在では、本来の熊祭りはすたれて観光ショーとしてしか行われないが、アイヌ民族独特の、本州の日本人とは異なった自然観、宗教観を示すものです。
 アイヌ民族は、神(カムイ)の国は山奥にあり、熊の姿をした神が、毛皮や肉などの贈り物をもって人間の世界を訪問し、大いに歓待され、盛大な見送りを受けたあとふたたび神の国へ帰っていくと考えました。だから、熊を殺すことは残酷なことではなく、熊の姿を借りた神の雲を神の国に帰すことになると考えていました。熊祭りはその見送りの儀式といえます。
 削り花を飼った祭壇の前で、長老が数年間飼育した子熊に昇天の祈りをささげ、歌と踊りが演じられたのち、熊に矢が放たれます。熊には箭や鮭が神の国への土産として供えられ、人々は肉を料理し、餅や鮭とともに共会して祭りが終わります。
  アエノコト。
   石川県能登地方、輪島市・珠洲市および鳳至郡で、十二月五日(旧暦の十二月五日)に行われる、霜月祭りの代表的なもので、二月九日(旧暦正月五日)には田の神送りをします。もとは旧暦十一月五日の霜月祭の代表的なものでしたが、現在では十二月五日に行うところが多くなりました。秋季と正月の中間に行うのでアイノコト(間の事)と言うのだという説もありますが、アユは饗宴、コトは神事の意味で、田の神を家に迎えて新穀を供える神事です。
 この行事の特徴は、田の神が家と田のあいだを往復するところにあり、現実には見えない神がまるでそこにいるようにして、家の主人が語りかけ、感謝の気持ちを表すのです。
 まず、床の間に依代のサカキあるいは松をさした種もみの俵と二本の二股大根を箕にのせて飾り、栗の枝で作った箸二膳を置きます。田の神は男女二神だと信じられているからです。
 それから、かみしも姿の主人が、田んぼに行き、「田の神様、長々ご苦労様でした。お迎えに参りました。」と唱え、家に案内し、迎え入れます。
 門口で「お連れ申した」と一言うと、家人がそろって出迎えます。炉端にござを敷き、「お寒うごぎいましたでしょう、ゆっくりおあたりください」、風呂に連れていき、「お湯加減はいかがですか。熱いですか、ぬるいですか、ゆっくり入ってください」、それから座敷に招いて、甘酒、餅などをのせた膳の品々を、いちいち「ご飯でございます」、「お汁でございます」などとすすめます。これは、田の神は稲穂で目を突いてしまい目が見えないからだとされています。最後に寝所となる種俵へと案内します。冬の聞ここでゆっくり休んで霊力を貯えてもらうという意味合いだそうです。
 こうして迎えた田の神は、二月九日まで家にいるものだと考えられています。
  成道会。
   釈迦が悟りを開いた日とされる十二月八日に、毎年行われる法会で、蝋八会とも言います。「成道」とは、菩薩が修行の末、成仏得道、すなわち悟りを開いて仏となることを言います。禅宗各寺院で一日から八日まで行われる座禅苦行の蝋八接心は、厳しい修行として知られています。
  大黒祭り。
   大黒は七福神の一神で、大福天とも言われ、大きな袋を背負って、打ち出の小槌を持った台所の神様です。
 東北地方では、十二月九日を「妻迎え」、「嫁取り」、「お方迎え」などと呼び大黒様が嫁を迎える日としてきました。この日は、ワラで編んだ皿に小豆飯を盛り、二股大根を供えます。この二股大根を「大黒さんのかかさん」「嫁大根」と呼んでいます。
 また、山形県米沢市には、八日に「大黒様の耳明け」という行事があります。二股大根の嫁に柏の葉の着物を着せたものと大豆飯を供えます。そして、炒り大豆を桝に入れてがらがら振りながら、「大黒様、大黒様、耳をあけておりますから、いいこと聞かせてください」と唱え、神棚に祭った大黒に大豆を投げるのです。家によっては、「ぜにかね、ざっくもっく(たくさん)入るようにしてください」とも唱えます。宮城県では、十日の夕方に、おなじようにして、「大黒大黒耳をあけ、よいこと聞いて悪いことを聞きたもうな」と唱えます。大黒は耳の悪い神なので、願いを聞き届けてもらえるよう、大きな音をたて、大きな声で言うのです。
  大師講・太子講。
   十二月二十二日ごろ(旧暦十一月二十三日ごろ)は、一年中でも昼が最も短い冬至で、旧暦二十三日から二十四日にかけては、さまざまな祭りが行われます。一つに、「二十三夜待ち」という月待ちの行事があります。二十三夜は新月から数えて二三日日、下弦の月といって左半分が輝いています。この日、人々は「二十三夜講」という集団を作り、飲んだり食べたりしながら月の出を待ちます。
 この日はまた、「大師講」、「太子講」と言って、弘法大師(真言宗を開いた僧、空海)、元三大師(平安時代中期の天台宗の僧、良源)、智者大師(天台宗を実質的に開いた中国の僧、智串)や聖徳太子といった偉大な人物が村から村へと巡り歩いて、人々の暮らしを見守る日とされています。
しかし、この行事の大師や太子は歴史上に実在する人物だったのではありません。もともとは、祖霊の一つ、「オオイゴ」と言われる来訪神(まれびと)が冬至のころ稲の収穫祭に村々を訪れ、翌年の豊作を約束すると信じられていました。そして、仏教が盛んになったのち、オオイゴに大師や太子の字があてられ、そこから混乱が生まれたようです。
 関東や東北地方では、「お大師様」は一本足の神様だという地方が多いようです。
 また、子どもを大勢連れた貧しい女の神様であって、大雪のこの日に亡くなったという地方もあります。
 この日に訪れてくるお大師様に「大師粥」、「霜月粥」という小豆粥を作り、連れているたくさんの子どもたちに食べさせるために、長短の著を添えてもてなします。大勢の子どもたちに食べさせるにはいちいち膳を用意することができないと言って、箸に団子を刺して供える風習が、東日本だけでなく広島県や島根県にも広がっています。また、この日には、お大師様の足跡をかくすためにかならず雪が降ると言われ、それを「跡隠し雪」などと呼びます。東北地方ではこのころ激しい吹雪になることがよくありますが、これを「大師講吹雪」と呼んでいます。
 また、猟師、炭焼き、木こりなど山で働く人々も、「山の神」を「オオイゴ」と呼び、農村山村を問わず広く信仰されてきたのです。
稲作を中心とする農村では、山の神は春に山から降りてきて田の神になり、秋の収穫のあとではまた山に帰る神ですが、山村の山の神は、ずっと山に住み、山や木を守っていると考えられていました。そして、炭焼きの技術を教えたのは聖徳太子だったという言い伝えがあったことから、山の神、オオイゴの祭りが聖徳太子や弘法大師などの名のついた祭りに変化したようです。さらに、関東より西の地方では、大工や左官、石屋、桶屋などの職人も、古くから聖徳太子を信仰し、太子講を組んで祭りを行っていました。

  神農祭。
   大阪市中央区道修町には、現在でも多くの薬屋や製薬会社があります。このあたりは昔から、薬の調合・販売をする薬種屋が軒を並べており、十二月二十二日、二十三日には 「神農祭」を行い、祭神を「神農さん」と呼んで親しんできました。京都の二条通りにも薬種屋が多く、室町時代から、薬祖とされた少彦名神を祭る少彦名神社があります。
 徳川八代将軍吉宗が大坂で病気になったとき、道修町の薬種屋の薬がよく効いてたちまち回復したので、幕府から薬種を吟味する特権が与えられました。しかし、薬種の吟味は人の命にかかわることで大変むずかしかったので、伊勢の皇太神宮の加護を祈りましたが、これだけでは安心できず、さらに京都から少彦名神を招いたうえ、中国の薬祖である神農もあわせて祭ったのでした。
 江戸時代末にコレラが流行したとき、道修町の薬種屋が丸薬を製造し、疫病除けに張り子の虎を笹につけたお守りを一緒に売り出したところ、大勢の参詣人でにぎわったと言います。現在でも、この町の店や会社は二十二日、二十三日には休業し、道々に大笹を立てては提灯をつるし、店頭には屏風や生け花を飾ります。
  念仏の口止め。
   十二月の一定の日に、正月の神様(年神=五穀の豊作を祈る神)は念仏が嫌いだとして、その日にその年最後の念仏を行い、翌年正月十六日の「念仏の口明け」まで念仏を唱えないというしきたりを言います。
十二月十六日に行うところが多いようですが、地方によって日がことなり、兵庫県美嚢郡では十二月十一日に行います。
  冬至。
 

 冬至は、12月23、24日頃。二十四節気の第二十二番目でこの日及び、小寒までの期間を言います。太陽の位置が黄経二七〇度にあり、北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日です。
 中国では古くから冬至節として祝っていました。暦の起点である冬至に天を祭ることは歴代の皇帝にとって最も重要な儀式でした。
 日本ではこの日、粥を作り、こんにゃくやかぽちゃを食べたり、冷酒を飲んだりするなど、特定の食べ物を食する風習が残されています。この日に柚子湯に入り、冬至粥(小豆粥)や南瓜を食べると風邪をひかないと言われています。また中国北方では餃子を、南方では湯圓(餡の入った団子をゆでたもの)を食べる習慣があるそうです。
 中国や朝鮮では、かぼちゃや、ゆず湯の代わりに、あずき入りのだんご汁を食べます。これも日本と同様に、本格化する冬に備えて栄養価の高い食物をとり、風邪などをひかないようにするための薬喰の風習とされています。
 中国では、皇帝すなわち天子は、天命として天の動きを司る能力を持つ者とされたため、暦づくりは天子が天子たることを人民に、そして周辺の隣国に示す必要がありました。
例年、中国の周辺国家は冬至使と称する一行に貢物を持たせて、天子のところへ出向かせ、天子の謁見がかなうと責物の返礼としてそれにまさる下賜物と冊を受け取ったのです。
これを冊封と言ったそうです。

  柚子湯。
   冬至の日、お風呂の湯に、ゆずの実の輪切り・皮を浮かせて入浴する行事です。
 ゆず湯に入れば、ゆずの香りがして心が静まり、体が温まって風邪を引かないとか、霜やけにならないとか、無病息災の効があると信じられていました。
 ゆずはミカン科の常緑樹で初夏には白い花が咲き、冬、黄色い実がなります。酸っぱすぎて、ミカンやオレンジのように生食はできないが、皮は芳香があるので鍋物などによく使います。
  年の市。
   年末になると、正月に必要な節り物、縁起物、三方、膳や椀などの漆器類、瀬戸物などを売る市が開かれます。 東京の浅草観音の年の市は、芭、江戸第一の規模を誇ったと言われ、羽子板を売る羽子板市、蓑を売る蓑市、門松を売る松市、注連縄やお節りを売るガサ市などが順次開かれていました。 大晦日に開かれる年の市は、今日を最後と捨て値で売られるところから「捨て市」と言われ、庶民はこの日まで待って正月用品の準備をしたそうです。 また、東京・世田谷の旧大山街道沿いには、農機具、古着など種々雑多な物を売る「ぽろ市」が開かれ、現在でも大変なにぎわいとなっています。 大変に古い市で、四〇〇年以上も続いていて、一月十五、十六日・十二月十五・十六日の年二回、市が立ちます。 ポロ市の始まりは、天正年間、世田谷の代官大場盛長が、領内の住民たちが無事正月を越せるようにと、不要の物を売って越年資金を捻出するという趣旨で始めたもので物々交換の市を立てさせたのに由来するといわれ、ポロ市の名もこれに由来しています。 記録によれば、ポロ市に並べられたのは古布・古下駄・古道具の類であったと言います。 昔に比べ規模は小さくなりましたが、それでも日用品・衣料品・植木などの店が一〇〇〇店以上も並び大にぎわいをみせています。
  歳暮。
   歳暮は、中元と並ぶ日本人の二大贈答習慣で、報戚、日上の人、お世話になった近所の人などに贈り物をします。 また、昔は嫁を迎えた家から嫁の実家へ、魚や酒などを贈る地方もたくさんありました。 しかし、歳暮は、日頃世話になっている人に対する感言射の気持ちを表すというだけでなく、日本に古くから伝わる新年に祖先の霊を祭るという意味も込められています。 つまり、年末に墓参りをし、霊祭りとして先祖にお供えをするところから来ています。 贈る品物はもともとは、魚をはじめとする食べ物でしt。今でも荒巻鮭がよく使われるのは、その名残りと言えます。
  なまはげ。
   秋田県男鹿半島の村々に伝わる奇習で、かつては陰暦一月十五日の行事でしたが、戦時中に一時中断、現在は大晦日または新暦一月十五日に行われるようになった。
 当日、鬼に仮装した若者たちが、片手に庖丁、片手に手桶などを持ってウォーウォーと奇声をあげ、家々を訪ねると、正装をした家の主人がこれを迎え入れます。鬼は神棚に礼拝した後、家の中の子供や嫁をいさめながら躍り上がって歩き回り、酒と餅が供されると、酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へと向かいます。
 仕事もせず、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑の方言)がつくといわれ、これを引き剥ぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれています。
  年越し蕎麦。
   大晦日の晩、家族みんなが寄り集まってそばを食べながら年を越す習慣で、また、そのそばを言います。そば粉で作った麺は、本来そば切りと言い、江戸中期頃には毎月末にそば切りを食べる風習があったそうです。その、一年の最後に食べるそば切りだけが年越しそばとして残ったものと考えられています。
 そばを食べるのは、そばが長く伸びることから、家運を延ばす命を延ばし財産を延ばすことに通じるからとか、そばが五臓の汚れを取るというので無病息災を祈るところからきたという説もあります。
 しかし、江戸時代中頃までのそばは、そば粉に熱湯を加えて団子のようにねった「そばがき」で、今のように細長い切りそばではありませんでした。
 本当の由来は、そばには粘着力があって、江戸の職人たち、ことに金銀細工の職人達は、時期をみはからって、そばを練っただんごを持って、そばだんごで飛び散った金粉銀粉をかき集めたところから来ています。この金粉銀粉のついただんごを七輪や火鉢の上で焼いて灰にすると、あとは金や銀の粉だけが残ります。それがいつしか「そばは金を集める」と言われるようになり、一般にも広まったようです。
 このほかにも、大晦日にツグミやカシドリを食べる風習もありますが、どちらも語呂合わせで,ツグミは「継身を祝う」という意味で、樫鳥は「貸し取り」、すなわち上手にお金が取れるという意味で、質屋など金融業の人が食したそうです。
  除夜の鐘。
   十二月三十一日の除夜の十二時をはさんで諸方の寺院で鐘をつくこと。また、その鐘の音を言います。百八の鐘ともいわれ、百八の煩悩を除去し、新年を迎える意味をこめて、百八回つき鳴らします。
 中国では、除夜はもともと冬至(収穫感謝祭の日)の前夜を言いました。『四条家年中行事』のなかに、この夜に追儺が行われていたことが記されている事から、古くは宮中、貴族の間では、除夜の晩に悪鬼を蔽う行事が行われていたと考えられています。
 百八の鐘は中国の唐代の禅僧・百丈懐海(七二十〜八一四年)が制定したといわれ、寺院では朝夕百八回鐘を鳴らすのを原則としています。ただし普段は、略して一八回にとどめるのが通例で、暁に鳴らすのは眠りを戒め、暮に打つのは目のくらんだ迷いを覚ますためだと言われています。
 仏教では、人間の心身を苦悩させる煩悩は百八種もあるとされています。一説に、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が、色・声・香・味・触・法の六塵と関係するときに、それぞれ苦楽・不苦・不楽の3種があって、一八種の煩悩となり、これを染・浄の二つに分け、この三六種をさらに過去・現在・未来の三つに分けて、一〇八種となると計算したものだそうです。
 しかし、百八は十二か月、二十四節気、七十二候を足した数だという読もあり、どうやらこちらが本来の意味のようです。
 日本に初めて鐘がもたらされたのは、欽明天皇の二十三年(五六二)八月に、大将軍大伴狭手彦が高麗(朝鮮)に遠征した時、多くの品々とともに、三口の鋼鋳鐘を戦利品として持ち帰ったときだとされています。
日本で鋳造された鐘の中で、現在する最古のものは京都妙心寺にあり、文武天皇の二年(六九八)に鋳造されたものと伝えられています。